伊勢市視覚障害者福祉会のホームページです。平成22年2月に100年事業を行ないました。

点 字

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  • メガネくん@盲学校/特別支援学校

  •  点字(てんじ)とは、
     視覚障害者が触覚で読む字で、点(盛り上がり)によって文字・数字を表現する。通常用いられる点字は横2×縦3の6つの点で表される。英語による表記はbraille、特に後述のブライユ式点字はBrailleである。
    近年、バリアフリー、あるいはユニバーサルデザインの一環として点字の併記が行われるようになり、代表的なものとしては、缶入りビールなどのアルコール飲料に「おさけ」「さけ」「びーる」といった表記が行われている。また、後述の点字に類似したものも参照。時には、トイレなどにも点字がある。
    パーソナルコンピュータの周辺機器としては、点字プリンターや点字ディスプレイといった機器で、点字を表現するものがある。
    日本の著作権法第37条では、著作物を点字により複製することができると定められている。
    点字に対して、晴眼者が使う文字を墨字(すみじ)と呼びます。
  •  ルイ・ブライユ について
    ルイ・ブライユルイ・ブライユ(Louis Braille、1809年1月4日 - 1852年1月3日)は、アルファベットの点字開発者である。
    パリ東方60kmにある、イル・ド・フランス地域圏セーヌ=エ=マルヌ県にある人口2700人ほどの小さな村クプヴレの生まれ。父親は馬具や革靴などを制作する職人で、自宅の一階に工房を持っていた。ルイは3歳の時に、その工房で遊んでいるうちに、父親が使っていた錐で、誤って眼球を突き破ってしまい、左目を失明した。その後、感染症により5歳で全盲となった。
    パリ盲学校在学中の1824年、フランス軍の軍人、シャルル・バルビエ(Charles Barbier)がもたらした12点式の「夜間に命令が出たときの暗号」を改良し、アルファベットを表すためには6点あれば十分で、その方が遙かに読みやすいことから、横2×縦3の現在の6点式の点字を発明した。パリの盲学校を卒業し、同校の教官になった。それ以前、視覚障害者のための印刷は、図画盤というざらざらした板に紙を乗せ、先のとがった物で左右が逆の文字を書いていたが、この方式は、視覚障害者自身上手に書くことは非常に難しかった。その後、楽譜や数式の書き方も定めた。これが世界中で使われる点字となった。
    ブライユは1852年、肺結核のため43歳で没した。彼の遺体はクプヴレ村からパリに運ばれ、パンテオンに埋葬された。
    クプヴレ村ルイ・ブライユ通り13番地にある彼の生家は、点字博物館として公開されており、世界中の視覚障害者たちが訪れ、何百万もの盲人たちに光をもたらしてくれたブライユの遺徳を偲んでいる。点字を表す言葉は多くの国で、彼の名前から"Braille"(フランス語読みではブライユだが、英語読みではブレイルになる)と呼ばれる。小惑星(9969)ブライユは彼にちなみ命名された。
      (ルイ・ブライユ フレッシュアイペディアより)
  •  石川倉次
    石川 倉次(いしかわ くらじ、1859年2月28日(安政6年1月26日) - 1944年(昭和19年)12月23日)は、日本の教諭。静岡県浜松市中区鹿谷町で生まれる。父は、浜松藩士。
    1868年藩主の国替えにより、千葉県市原市の鶴舞に移る。1879年、千葉師範学校を卒業後、千葉県内の小学校の教師となる。このころより国語やカナ文字の指導に関心を持ち研究会にも出入りし、そこで知り合った訓盲唖院の小西信八に誘われて、1886年、訓盲院(後に東京盲唖学校)教師となる。
    1890年ルイ・ブライユが考案した6点式点字で日本語を表記する事に成功(12点式を6点式に変えた)。これが正式に採用されたのが、1890年11月1日のことで、以来この日が「点字の日」と定められている。石川は「点字器」、「点字ライター」も開発し、日本点字の父といわれている。
    1910年東京盲唖学校が、東京盲学校と東京聾唖学校に分離した際、東京聾唖学校へ異動。
    日本における盲教育における一大人物であり、聾唖学校への転出は非常に惜しまれたが、「盲教育に比べて聾唖教育は、若い教育者には難しい」という理由で盲教育の場を去った。1944年、戦争で群馬に疎開中、85歳で逝去した。
    人権に尽くした人たち石川倉次~日本点字の研究と発展に努めた生涯~
     今日、私たち一人ひとりがかけがえのない人間として尊重され人権が護られるのが、ごく当然の権利として認識されるようになっていますが、ここに至るまでには多くの人たちの弛まぬ努力や献身的活動がありました。このコーナーでは国内の人権に先駆的に尽くした人物にスポットを当てその足跡を辿ってみます。
     今回は、フランス人のルイ・ブライユが考案した6点点字を基礎にして、日本語に合うように研究と工夫を重ねて「日本の点字」を完成させ、その普及に生きた石川倉次を紹介します。
    ▲ 石川倉次 ◆ 激動の時代に生まれ
     倉次は1859年、井上藩士の石川専七、母ゑしの長男として浜松市に生まれました。
     両親や祖母の愛情のもと、向学心旺盛で心豊かな少年に育ちますが、時代は幕末から明治へ大きく揺れ動き、藩主の上総国への転封によって、石川家も市原市鶴舞へ転居となります。倉次9歳の時です。さらに、藩籍奉還で職を無くした父は家族と離れて仕事を求めて千葉県の各地を転々とする身となります。病弱な母も生活のために、まだ幼い倉次の妹弟を養育しながら針仕事や近所の手伝いなどをして懸命に働きました。そんな母を見て倉次は、早く一人前の大人になりたいと思い、学問に身を入れてゆきます。
    ◆ 教育者への道
     鶴舞小学校を16歳で卒業した倉次は、その優秀な成績と才能を認められ、卒業と同時に母校の助教師に採用されます。さらに、正教師の資格を得るために千葉師範学校教員検定試験に合格、正教師として水沼小学校(現長南町西小学校)へ赴任します。そんな中、母が亡くなり、妹弟は父と銚子で暮らし始めます。なお、単身となった倉次は教師を辞め、新聞記者になろうとしますが叶えられませんでした。
     1878年、あらためて高い志を胸に教師となる決意をした倉次は千葉師範学校へ入学、同校師範科を卒業した後、鷲野谷小学校(現手賀西小学校)や浜田小学校(現幕張小学校)で教鞭をとり、教育者としての才能を開花させていきます。そして、22歳の時に久野さのと結婚します。また、このころから都内での仮名文字会に出席して表音文字の研究を始めています。
    ▲ 1937年の小西信八(左)と石川倉次(右) ◆ 小西信八との出会いと転機
     1885年、長女・千代が生まれます。また同じ頃、倉次は茂原小学校への赴任となり、茂原で親子3人での充実した生活を始めます。ところが翌年1月、差出人『楽善会訓盲唖院内 小西信八』から、楽善会訓盲唖院への赴任を促す手紙が届きます。彼とは仮名文字会で知り合い、日本の文字の改良でお互いの意見を交換する仲でしたが、小西の勤める学校の名前を聞くのも初めてですし、どのような教育をしているのかも想像できませんでした。
     一度は申し出を断わったものの、その後も小西から障害教育の現状を訴え、倉次の協力を必要とする旨の手紙が届きます。そして、1886年2月、小西の誠意と熱意に促されて倉次の上京が実現します。
    ▲ 楽善会訓盲院
    ▲ 凸文字の教科書 ◆ ブライユ点字との出会い
     小学校教育制度の上では訓盲唖院と一般の尋常科との教育内容には大差ないものの、生徒にしっかりと学力をつけてもらうためには、適切な触読用文字を必要としていました。当時は漢字や仮名を浮き出しにした凸文字の教科書ですが、何という文字がそこに書かれているのかを理解するのに生徒は大変な苦労をしていました。その姿を目にして、倉次は触読用文字の研究・考案への使命を痛感します。そして、凸文字書を前に考え込む日が続くようになります。
     そんな時期、イギリスの教育者が書いた「盲人の職業と教育」を読んだ小西は、フランス人のルイ・ブライユが考案した点字の優秀さを知り、そしてブライユ点字を日本点字へ翻案研究するよう倉次へ依頼します。
     承諾した倉次は寝食を忘れて点字研究に没頭します。ブライユ点字は3点2行()の6点点字と言って欧米文字を表現するのは十分可能ですが、日本語は表音文字(仮名)だけでも100を超え、6点では無理がありました。そのため倉次はブライユ点字の基本に従いながらも3点4方()の8点点字への研究に邁進します。しかし、小西からは『世界との共通性』を理由に研究のやり直しを助言されます。
    ◆ 理想の点字を求めて
     独創の8点点字へこだわりが、6点点字移行への葛藤と苦悩を倉次に生じさせます。この頃の逸話に、食事中、箸と茶碗を持ったまま、いつまでも考え込んでしまったり、妻のお産をすっかり忘れていて、隣室からの産声で初めて出産に気づいたこともあったといいます。
     3点2行の6点点字を模索し続けた倉次は、次々に6点点字配列表やその改良案を発表していきます。その独創のひとつが前置付加点方式(清音文字の前に濁点符等を置く方法)です。この方式を生徒たちへ試みて、触読しやすい結果を得られたことから、日本点字の完成に自信を深めます。そして、1890年11月1日、学内で開かれた点字撰定会で倉次の案が支持され、日本点字として採用が決定します(11月1日は「点字の日」となっています)。
    ▲ 石川式点字タイプライター ◆ 点字の普及活動
     倉次は日本点字の普及を図るために全国の盲学校や関係団体へ「日本訓盲点字一覧」を配布したり、各地で点字の指導・解説活動をおこないます。それは、次第に全国の視覚障害者及び教育者に浸透していきました。そして、1901年4月の官報に「日本訓盲点字」として掲載され、名実共に「日本の点字」になりました。また、点字を表記するための「点字器」や「点字タイプライター」も開発しています。こうして倉次の「日本点字」は社会で生活する視覚障害者へ『文字の光』を与えました。
     倉次は点字を完成させた後も、東京盲学校や東京聾学校などで教育に携わりながら、日本点字の普及と指導を続けて行きます。晩年は、父が暮らした銚子で過ごしていましたが、1944年、太平洋戦争により疎開した群馬県安中で85歳の生涯を終えました。まさに日本点字の研究と発展に尽くした人でした。
    (写真は筑波大学付属視覚特別支援学校より提供していただきました。)
    ■楽善会について
     1875年、日本に聴覚・視覚障害者のための学校設立を志す古川正雄、中村正直、津田仙、岸田吟香らが組織。訓盲院(1879年)、訓盲唖院(1884年)、官立東京盲唖学校(1887年)などを経て、今は筑波大学附属視覚特別支援学校と筑波大学附属聴覚特別支援学校に至る。
    ■凸文字教科書について
     楽善会訓盲院が大蔵省印刷局に委託して作成された。板に文字を彫り、厚手の和紙を水に浸して軟らかくしたものをその上に置き、上から押さえて文字を浮き出させ、これを乾燥させて作成した。
    ●点字は縦3点、横3点の六つの点を組み合わせて作る表音文字で、左上から下へ(1)の点、(2)の点(3)の点、右上から下へ(4)の点、(5)の点、(6)の点と言います。
    ●母音は(1)(2)(4)の3点を組み合わせて作り、残りの(3)(5)(6)の2点を
    組み合わせて作る子音で五十音を構成しています。
  • 石川倉次年譜 西暦 和暦 年齢 事項
    1859 安政6  浜松に生まれる
    1868 明治1 9歳 家族で千葉の長南町~市原市鶴舞に転居
    1871 4 12 鶴舞藩校、克明館入学、後に鶴舞小へ編入学
    1875 8 16 千葉師範学校教員検定試験合格、水沼小に赴任
    1877 10 18 水沼小学校依願退職、新聞社への就職活動
    1878 11 19 千葉師範学校受験、成績優秀につき第3級に編入
    1879 12 20 千葉師範学校師範科卒業、鷲野谷小に赴任
    1880 13 21 浜田小に赴任(校長兼務扱い)
    1881 14 22 久野さのと結婚
    1884 17 25 仮名文字会研究会で小西信八と知り合う
    1885 18 26 茂原小に赴任
    1886 19 27 小西から勧誘され楽善会訓盲唖院雇となる
    1887 20 28 小西からブライユ点字を翻案研究するよう依頼
    1888 21 29 3点4方の8点点字を発表
    1890 23 31 3点2行の6点点字配列表を発表
    点字選定会で倉次案が採択
    1898 31 39 点字拗音組織を発表、懐中点字器を製作
    1899 32 40 東京高等師範学校教諭に任
    1901 34 42 「日本訓盲点字」として、倉次翻案が官報に掲載
    東京盲唖学校教諭に任、同校訓導も兼務
    1904 37 45 石川式点字タイプライター完成
    1910 43 51 東京盲学校教諭に任
    1925 大正15 66 「日本盲人用点字の起源」の原稿執筆
    1944 昭和19 85 群馬県安中へ疎開、永眠

     日本点字図書館 点字の事を更に詳しく知ることができます。

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